ピンホール写真の歴史

思い出: ピンホール写真についての最初の記憶はいつ頃だったろう?

私の場合、それは小学校低学年の頃、あるいは、それよりももっと前だったような気がします(1940年代)。雪が降り止んで太陽の光が眩しい朝のことだったと思います。(多分、風邪を引いていて)いつもより遅くまで布団にくるまっていた時に確かにそれを見ました。雨戸の節穴から射し込んでくる光の回廊の中に埃が舞っていて、その先の襖には外の景色が映っていたことを今でもありありと思い出すことができます。今思えば、これは葛飾北斎の「さい穴の富士」と同じ情景です。21世紀となった現在の家屋には、普通、節穴のある木製の雨戸などついていませんが、20世紀前半には節穴のついた雨戸のある家がまだたくさんありました。

このような現象(ピンホール現象)を日本語では「小穴投影」と呼ぶようです。もっとも、最近はあまり使われていない言葉のようですが。確か、小学校の理科の時間には「ピンホール(針穴)写真」としか習わなかったように思います。ピンホール写真に深い関係のあるものに「カメラ・オブスキュラ(Camera Obscura)」があります。この装置については、だいぶ前から知っていました。後でまた出てきますが、カメラ・オブスキュラは(基本的には)箱の前面の壁にピンホールまたはレンズをつけて後面の壁(半透明)に像を投影して、この像を半透明の壁の後ろからトレースして絵を描く装置で、現在のカメラの前身と考えられています。

ピンホール現象
後で出てくる葛飾北斎の「さい穴の富士」(節穴の富士山)からヒントを得て描いた図です。

 
 
 
 
 

アルタミラ、ラスコー,・・・洞窟画: 人間の歴史の中でピンホール写真の歴史は、どこまで遡れるのでしょう?

馬の洞窟画(ラスコー)

 
       
 
 
 
 
 
 
「石器時代の人類は、既にピンホール現象を知っていた」という説があります。これは、多分、本当だと思います。なにしろ、私の経験のように、小学校に入るか入らないかの年頃の子供でさえ、ピンホール現象を観察して長いこと記憶にとどめておくような印象的な現象だからです。もっとも、その証拠を見つけて証明する事はとても大変でしょう。 このことを証明しようとして研究を続けている人たちがいます。代表的な研究の例は、ガットン(Matt Gatton)の ”Paleo-Camera”というウエブサイトで見ることができます。「美術の歴史は旧石器時代の絵画に始まる」というのは定説になっていると言ってよいと思われますが「どのような動機で、あるいは、どのような状況のもとで、旧石器時代の人類が絵を描き始めたのか」ということについては色々な説があって結論が出ていないようです。このような美術の始まりにピンホール現象が使われたのかもしれないという推論が生じた大きな理由は、「遠近法が使われているような洞窟画があること」と「極めて精密に表現されている動物画があること」等です。ところで、ガットンは、まず、数多くある美術の起源の理論を3種類に分類します。それは、必要性(Needs, Interpreted Purpose)、能力(Ability, Mental Capacities)、および経験(Experience, Recognition)です。「必要性」というのは、狩猟において獲物を沢山穫るとか災害等に対しての恐れを沈めるというような「目的」をさしており、「能力」というのは「芸術のための芸術」とか「人生のための芸術」とかいうように人類の脳の進化とともに出てきた「知的可能性」をさします。一方、「経験」というのは、「熊の爪」が壁に作った文様とか他の目的で細工した石の姿形のように既に目の前にある物を経験したり認識したりすることをさしています。ガットンは、これらの要因のうちどれが一番正しいと競い合うのではなくて、むしろ組み合わさって美術の起源についてのよりはっきりしたイメージを作り出すのだと考えた上で、この「経験」に関した新しいアイデアをピンホール現象に求めたのです。今では、美術の起源について膨大なデータと膨大な研究成果があってこれらと矛盾無く「ピンホール現象が重要な役割を果たした」と簡単に結論づけることはできません。ガットンは、色々な要因と協調してピンホール現象の発見も何らかの役割を果たしたのではないかと主張しているのだと思います。 スペインのアルタミラやフランスのラスコーの洞窟画は特に有名ですが、その他にも沢山の洞窟画が世界中で発見されています。旧石器時代はおおむね250万年前から1万年前までの時期をさしますが、そのうちほぼ3.5万年前以降は後期旧石器時代と呼ばれ寒冷な気候であったと言われ、また、アルタミラやラスコーの洞窟画はこの時期に描かれたものです。ガットンは、この寒冷な気候を乗り切るために人類が用い始めた動物の皮を使ったテントや(洞窟の入り口の)カーテンに開いてしまった小さな穴から入る光によってできたピンホール画像をトレースしたのが洞窟画等の旧石器時代の絵画の始まりであろうと言う仮説をたてました。このような仮説は、多分、今までも数多くたてられたに違いありません。しかし、なにぶん文字による記録の無い時代の話ですから、当時描かれた絵画がピンホール現象の助けを借りたものだということを証明するのは容易なことではありません。ガットンは学生達を動員した野外実験を行って「旧石器時代の絵画」がピンホール現象の助けを借りて描かれたという「状況証拠」を集めてこのことを証明しようとしています。まず、テントや洞窟の中が十分に暗くて、当時の人たちが使っていたに違いない動物の皮に開いた穴によってテントや洞窟そのものが「カメラ・オブスキュラ」になってしまう可能性を野外実験で確かめました。次に、ガットンは、洞窟画よりも小石の上の彫刻画(engraving:“洞窟画=cave art”に対して“portable art”あるいは“plaquet”と呼ばれていて洞窟画同様沢山見つかっています)を対象にして、当時と同様な状況を作ればピンホールで投影された像をトレースすることで良く似た絵画ができることを、学生によるシミュレーション実験で示します。具体的には、このような小石に描かれた動物には頭や脚の輪郭線が多数あったり頭,胴、脚のバランスが現実の動物とは著しく違うことが多いのですが、この点に着目して、その原因は洞窟等の外を動いている動物がピンホールを通して平らでない面上に投影された像を暗い中でトレースしたためであると結論づけています。もちろん、この「状況証拠」によって「石器時代の人類がピンホール現象を知っていて、この現象を使って絵を描いていた」ということが証明される訳ではありませんが、これはなかなか面白い研究であるし、私も、「きっと旧石器時代の人類もピンホール現象を知っていたに違いない」と思います。「旧石器時代のある特定の絵画はピンホール像をトレースして描かれた」ということを示す決定的な証拠があればいいのですが、これはなかなか難しいことだと思います。後で平賀源内がカメラ・オブスキュラを用いていたと言う推理について述べるときに出てくるように、例えば、旧石器時代の昔から変わらずに存在する左右非対称の対象物があって、その対象物が鏡に映ったように左右反転して描かれているような彫刻画が見つかれば、これはピンホール現象を用いて描かれたことの有力な状況証拠になるかもしれません。なお、ガットンの説は映像史研究者のバムズ(Paul Bums)がそのウエブサイトThe History of Discovery of Cinematographyで支持していて、具体的な証拠の一つとしてラスコーの洞窟画に上下が逆に描かれている馬の絵を示しています。

墨子とアリストテレス: ピンホール現象について文字による記録はいつごろから? (1)アリストテレス

自然のピンホール現象
アリストテレスは、日食のときにプラタナスの葉が重なり合ってできる隙間を通ってきた光によってピンホール現象が観測されることを記しています。図は、木陰の地面に日食の映像が多数撃てっている様子を示しています。
 
   
 
 
西洋諸国については、紀元前4世紀のアリストテレス(Αριστοτέλης、Aristotles、B.C. 384 – 322)による記述がピンホール現象についての文字による最古の記録であるとされています。日食のときに、木漏れ日によって地上に投影される太陽の像について述べているのがその記録です。アリストテレスは「プラタナスあるいは他の広葉樹」と記していますが、適度に茂った広葉樹の下から空を見上げると重なり合った葉の隙間が多数の「ピンホール」となって日食のときの太陽の像を多数地面に投影する様子が想像できます。この様子は上の挿絵のように見える筈ですが、実際の写真を見ようと思うならば、Wikimedia Commonsのサイトに入ってキーワードを「solar eclipse」として検索するとアリストテレスが見たに違いない「日食の像」と同様の多数の写真を見ることができます(下図)。この時、光が通ってくる小穴がどのような形をしていようが「被写体」の形が正しく投影されるのはなぜかということが「アリストテレスの問題」(注釈1)として提起されて、ルネッサンス期にマウロリコ(Francesco Maurolico, Franciscus Maurolycus:1494 – 1575)やケプラー(Johannes Kepler: 1571.12.27 – 1630.11.15)によって解答が与えられるまでの長い間未解決問題として残されていました。実際、木漏れ日が通過する木の葉の隙間はいろいろな複雑な形をしているのに、地面には、上の挿絵に見られるように、日食によって三日月型になった太陽の像が投影されますね。



木漏れ日による日食の写真
By Nils van der Burg (1 April 2008; cc-by-sa-2.0) 








墨子とアリストテレス: ピンホール現象について文字による記録はいつごろから? (2)墨子

一方、東洋においては、アリストテレスより早く、紀元前5世紀には既にピンホール現象について知られていたことの記録があります。これは、中国春秋戦国時代の思想家の墨子(Mozi, 墨翟、Mo Ti, Mo Di:450 ? – 390 ?)の著書である「墨子」の中の「経、経説」にある記述をさしています(注釈2)。なお、「墨子」と言う時、墨子その人をさす場合と墨子およびその弟子達による著作物をさす場合がありますが、混乱することもないと思いますので特に区別いたしません。 経、経説(各上下)は現存する著作物53篇のうちの4篇で、この4篇が理工学的な内容を持っています。実際、この部分には、ピンホール現象のような光学の知識だけでなく古典物理学に関する広い範囲の知識が含まれています。これらの内容はジョセフ・ニーダム(Joseph Needham:1900 – 1995)の著書(中国の科学と文明)によって20世紀の半ばには広く世界中に知られるようになりました。ところで、 経、経説の記述はきわめて簡潔であるばかりでなく長い年月に亘って伝えられてくる途中で誤記等も生じたためにとても難解でその内容を正しく読み取ることは容易ではありません。しかし、今までに行われた研究の結果、墨子がピンホール現象についてあるレベルの理解に達していたことは間違いないとされています。興味深いのは、ピンホール現象によって生じる「像が倒立する」ことの解釈についてです。 経、経説の記述から墨子は、光線の直進性について理解しており像が倒立する理由を正しく理解していたことがわかりますが、アリストテレスはその理由を明らかにできなかったので西洋ではこの問題の解決もルネッサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo di ser Piero da Vinci、Leonardo da Vinci:1452 – 1519)の登場を待たねばなりませんでした。

カメラ・オブスキュラの時代: ピンホールカメラが、今のカメラに直接つながるような装置になっていったのはいつごろなのでしょう?

西洋におけるアリストテレスから現代の写真技術に至る道程には、カメラ・オブスキュラに関係ある膨大な記録が残されています。これらについては詳しい研究がなされていて研究論文はもちろん優れた解説も多数ありますから、ここでは詳しくは述べないことにします。 ルネッサンスの前のヘレニズム時代および古代ローマ時代には、西欧諸国においてピンホール現象は余り話題にならなかったようです。この時期におけるピンホール現象に関する最も重要な人物はアラビアの博物学者である アルハゼン(Abu ‘Ali al-Hasan ibn al-Hasan ibn al Hautham, Alhazen: 965? – 1039?)です。アルハゼンは、物理学や数学の分野で数えきれないほどの貢献をしています。彼は、近代光学の父と呼ばれておりピンホール現象について正しく解析して記述しています。実際、彼は世界で初めて「カメラ・オブスキュラ」を作り、これについていくつかの実験をしています。また、彼は、この装置を日食観測に使っています。彼が、この「カメラ・オブスキュラ」について研究していた時に、彼はこの装置を”Al-Bayt al-Muthlim”と命名しましたが、これは英語で言うと”dark room”と言う意味になります。したがって、ラテン語にすると”camera obscura”と同義です。因みに、この装置を最初に”camera obscura”と呼んだのは、Johannes Keplerであるとされています(1604)。
 
さて、ルネッサンス期のカメラ・オブスキュラの時代に重要な役割を果たしたキーパーソン達について触れておきましょう。まず、英国の哲学者でフランチェスコ会の修道士であった ロジャー・ベーコン(Roger Bacon: 1214 – 1294)がいます。かれは、イスラムの科学を西欧諸国に導入しました。その中には光学も含まれており、特に日食観測に使われていたカメラ・オブスキュラを導入したことで知られています。さらに、建築家で透視図法の確立に貢献した フィリッポ・ブルネルスキー(Fillippo Brunelleschi: 1377 – 1446)がいます。また、万能人(uomo universale)と呼ばれた レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci: 1452 – 1519)は眼の構造と機能を研究する過程でカメラ・オブスキュラを設計して、彼の著書 ”Codex Atlanticus (1490)” の中にカメラ・オブスキュラのことを書いています。一方、カメラ・オブスキュラの利用者としても多数の芸術家や研究者がいます。世界的にも有名な芸術家として、ドイツの画家のアルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer: 1471 – 1528)、オランダの画家の ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer: 1632 – 1675)がいます。後でも述べるように、現代物理学の揺籃期に重要な役割を果たしたニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus: 1473 – 1543)ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe: 1546 – 1601)およびヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler: 1571 – 1630)は天体の観測にピンホール望遠鏡を使ったと考えられています。特に、ケプラーは、フランチェスコ・マウロリコ(Francesco Maurolico: 1494 – 1575)とは独立にアリストテレスの問題を解いたとして知られてもいます(注釈1)。彼らの他にも、ルネッサンス期の多くの芸術家、建築家、天文学者、数学者、その他の人々、がカメラ・オブスキュラの利用者あるいは研究者として広く知られています。
 
一方、中国に目を向けると(注釈3)、墨子以降、いくつかのピンホール関係の資料があります。ニーダムによれば、唐や宋の時代にはピンホールや暗箱の実験が興味をもたれたようですが、その理解に特に大きな進展があったようには思えません。むしろ、 段成式(Duan Cheng Shi, 803? – 863)による「酉陽雑爼」(Youyang Zazu、863)にはピンホール現象において像が倒立することについて全く誤った解釈が為されていて墨子の時代からさらに逆行しているような印象を受けます。もっとも、その後出版された沈括(Shen Kuo、1031 – 1095)による「夢渓筆談」(Meng Xi Bi Tan、1086)ではピンホール現象について正しい記述が為されていて、 段成式の間違いについても指摘されています。この本には、ピンホールで投影した時に、鳥が東に飛ぶとその影は西に動くことや塔を見るとその像は倒立して見えることが記されています。また、中国の科学技術史に関して特筆しておくべきことの一つは、天体観測の記録が豊富にあることです。これらの記録のほとんどはピンホール現象に直接関係あるとは思えませんが、紀元前28年から太陽黒点の記録が系統的にあることは、西洋での黒点発見がルネッサンス期にカメラ・オブスキュラが普及して後であることと比べると注目に値します。太陽黒点は光学系の像を投影するか何らかの方法で減光した太陽を目で直接見て観測するのが普通ですが、中国では朝夕太陽が地平線に近く光が弱い時にしかも特別大きな黒点を観測したものと思われます。ピンホールを使ったという証拠は見いだされていないようです。 ところで、「カメラ・オブスキュラ」というとき、まずピンホール現象と結びつけて考えられがちですが、実用的に用いられたのは、当時既に発明されていたレンズを用いたものであったようです。ピンホール現象を用いたカメラ・オブスキュラでは室内で使うには暗すぎて実用的ではなかったものと考えられます。美術史の観点から見るときにはカメラ・オブスキュラをことさら「ピンホール現象を使ったもの」と「レンズを使ったもの」に分ける必要もないでしょうが、ピンホール・カメラの歴史に限って考える時には注意が必要です。

葛飾北斎、滝沢馬琴と江戸の絵師達: 日本ではピンホール現象はいつごろから知られていたのか?

日本で最初にピンホール現象に着目したのは誰であるでしょうか?これは必ずしも明らかでありません。江戸時代より前の時代の文献でピンホール現象について書いてあるものを私はまだ知りません。江戸時代の科学技術というと、当然のように、平賀源内(1728 – 1780)の名前が出てきますが、平賀源内がピンホール現象に直接関わったかどうかは定かではありません。中川邦昭著の「映像の起源」によれば、1645年にオランダからもたらされた「暗室鏡(doncker camer glassen)」が出島のオランダ商館の輸入品仕訳帳に記載されていて、翌1646年の平戸オランダ商館長の日記に同一と思われる物品の記載のあるものがカメラ・オブスキュラについての我が国最初の記録であろうとされています。カメラ・オブスキュラが輸入されて以来、これは国内に普及したと見られますが、当時は、これを「暗室写真鏡」、「暗室鏡」等と色々な名称で呼ばれていて、後に、「写真鏡」という名前が定着します。例えば、杉田玄白(1733 – 1817)の「蘭学事始」には「写真鏡」としての記述があります。「写真鏡」の名称がいつから使われ出したかははっきりしませんが、平賀源内と司馬江漢(1747 – 1818)が「写真鏡」の命名者であるとされているようです。司馬江漢が写真鏡を使っていたことは、色々な文献から明らかです。一方、平賀源内がこれを使っていたらしいことは、上記「映像の起源」によれば、源内の「西洋婦人図」(神戸市立博物館)とほとんど同じ「西洋婦人図」(伝・平賀源内、秋田県立美術館)があることや、Gaseo作「西洋男女図」(神戸市立博物館)の女性の部分を左右反転するとこの絵画とそっくりになる事から源内が写真鏡を使って映像をトレースしていたのではないかと推測されています。
 
平賀源内とカメラ・オブスキュラ
カメラ・オブスキュラの日本語名「写真鏡」の命名者は、江戸時代の科学技術の話題には必ず登場する平賀源内と考えられています。平賀源内がピンホール・カメラに関係したかどうかはわかっていませんが、カメラ・オブスキュラを用いて絵を描いたらしいことは本文にあるように推測されています。上の図は、左:Gaseo作「西洋男女図」に描かれた夫人の左右反転図、中央:平賀源内作「西洋夫人図」、右:伝・平賀源内作「西洋夫人図」で、下側の図はこれらの図から輪郭を抽出して作成した図です。
 
 
 
このように、17世紀中葉に我が国にもたらされたカメラ・オブスキュラは18世紀後半には広く使われるようになっていたようですが、これらは皆レンズを用いたカメラ・オブスキュラであると考えられます。では、日本におけるピンホール現象そのものについての歴史はどうなっているのでしょう。
 
 
葛飾北斎の絵本「富岳百景」の中の「さい穴(節穴)の不二」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 実は、まさにピンホール現象について記した江戸時代の記録があります。葛飾北斎(1760 – 1849)が絵本「富岳百景」(1834)の中に「さい穴(節穴)の不二」という作品を残していることです。図をみればわかるように、この作品は、雨戸に開いた節穴をピンホールとして障子に富士山の像が投影されている様子を表しています。この作品はかなり有名で色々なところで引用されています。
 
 滝沢馬琴(曲亭馬琴)の「阴兼阳(かげとひなたの)珍紋圖彙」の中のピンホール現象
 
同様のピンホール現象の絵は、滝沢馬琴(曲亭馬琴、1767 – 1848)「阴兼阳(かげとひなたの)珍紋圖彙」(1803)という書物にもあります。 その内容は、同じく滝沢馬琴の書いた旅行記「覊旅漫録」(1801)第23項「五綵(ごしき)の山水」と同じものです(「覊旅漫録」の方には絵はありませんが)。ここには、三州新堀の木綿問屋(豪商)深見荘兵衛の息子の狂歌師朝倉三笑の納戸の節穴から一尺の所に紙を置くと十間先の泉水・草木が色つきで写り、そこに干してあった子供の手習い草紙の表紙の文字やそこに立たせた子供の目鼻、衣服の模様、竹や柳の動きに見られる風のそよぎや池のさざ波まではっきり見えることに驚いて絵(「阴兼阳珍紋圖彙」:上図)にしてあります。この現象については、「蘭畫びいどろかゞ みといふものに似たり」と表現して、この「蘭畫びいどろかゞみ」については「戸をたてこめて内はうすくらうして外より影をとるなり」という注を付けてあります。「びいどろかゞみ」は文字通り「ガラス製の鏡」と言う場合にも「望遠鏡」という意味にも使われていたようですが、この場合には、明らかに「部屋型のカメラ・オブスキュラ」を表しているように思われます(「びいどろかゞみ」ですからこのカメラ・オブスキュラはピンホールではなくてレンズを使ったものでしょう)。また、この現象に関しては、「京都の百姓丹羽又左衛門の納戸の節穴から東寺の塔が写る」こと及び「信州上の諏訪の薬師堂の裏の羽目板の節穴でも同様の現象が見られる」ことを記してあります。倒立像が得られることはいずれの書物にも指摘されていますが、このことについて特別なコメントはしていません。さらに、これらの書物は14世紀の中国の書物である陶宗儀(Tao Zongyi, 1316 – 1369)著「輟畊(耕)録」(Chuo Geng Lu, 1341)の卷15の第14項「塔影入屋」に記されているピンホール現象のことを引用している他、前に記した 段成式の「酉陽雑爼」についても触れていて、こういう現象は「外国にも昔からあるのだ」というコメントをつけています。この「輟畊録」は30巻から構成されていて、日本では承応元年(1652)に発行されていますから、滝沢馬琴は、多分、日本で出版された本を読んだものと思われます。 ここで興味深いのは、馬琴は、ピンホール現象について多数の事例を知りながらこれらを一般化していないことです。馬琴は、「世間ではこういうことが時々あるのだろうけれど普通は戸や羽目板に節穴などがなくて、しかも、いつも人が行くところではないので気がつかないのだろう」とは書いてありますが、アリストテレスのように、「重なり合った広葉樹のすきま」からの光がピンホール現象を起こすということを篭の目とか人の指で作った小穴にまで拡張するようなことはしていません。どうも、書いてあることから判断して、ピンホール現象が観測されているそれぞれの場で節穴が何か特別な力を持ってその現象を起こしていると考えていたのではないかと思えます。このように考えると、 段成式の「酉陽雑爼」の中で「海の傍であることが倒立像を作る」という「誤った理論」が出てきた事情がわかるような気がします。北斎や馬琴の活躍した当時、カメラ・オブスキュラについてはある程度世間に知られていたけれども、ピンホール現象については余り知られていなかったのではないだろうかと思われます。さらに、上のようなことを考えると、葛飾北斎や滝沢馬琴はこの「ピンホール現象」と当時使われていた「(箱形)カメラ・オブスキュラ」との関係にも気がついていなかったのではないかという想像までかき立てられます。現在、私たちは「レンズ付きカメラによる写真と比べてピンホール写真はソフトでよい」等と「ピンホール写真の価値」を認めますが、当時はレンズ付カメラ・オブスキュラと比べて実用的な観点からは利点が少ないと思われるピンホール付きカメラ・オブスキュラというものは、通常、余り関心を持たれなかったのだろうということも考えられます。 ところで、葛飾北斎は生涯で30回も号を変えていますが「北斎」の号を用いたのは「椿説弓張月」等の馬琴の書物の挿し絵を描いていた頃だけと言われており、これは1800年代の初期のことです(ただし、「阴兼阳珍紋圖彙」の挿し絵は葛飾北斎によるものではありません)。そして、「覊旅漫録」と「阴兼阳珍紋圖彙」が、それぞれ、1801年、1803年に出版され、「富岳百景」が1834年に出版されています。このようなことから、ピンホールについての情報は、陶宗儀⇨滝沢馬琴⇨葛飾北斎と伝わっていったことが想像できます。ちょうど同じ頃、これとは独立に西洋から伝わってきたカメラ・オブスキュラは絵師の間で先端技術として使われていたわけで、葛飾北斎もその使用経験があったのかもしれないと思われます。