何天不可翺翔

私は、埼玉県浦和市(現在、埼玉県さいたま市)で生まれ、大学院を出て就職するまでほとんどの期間を埼玉県浦和市に住んでいて、小学校と中学校は浦和市にある埼玉大学附属小学校と仝中学校に通っていました。1993年の3月にこの中学校の同期生による「グループ翔作品展」が始まりました。同じ学年の仲間ですから、ほとんどの友達は1940年生まれで、皆、52~53歳だった時です。私も1997年の第3回翔作品展から出展するようになりました。翔作品展は、今年(2011年)が10回目ですが、今まで1度以上出展した人の数は50人を超えています。附属中学校の学年構成は4クラスでほぼ200人でしたから、この50人という出展者数はその1/4にあたり、かなり高い参加率だと思っております。ところで、私は第3回翔作品展には写真と篆刻を出すことにいたしました。当時は、まだ、赤外線写真もピンホール写真も撮影していなかったので、写真作品は普通に撮影した写真です。一方、篆刻は二点出展いたしましたが、その一つがここに上げた「何天不可翺翔」( t19970309a )です。前にも書いたように、私の篆刻自体は全くの自己流ですが、気に入った中国の名言名句、漢詩、あるいは禅語等を探してきて彫るのを楽しみにしています。ですから、翔作品展にしてもDAC展にしても、作品の出来よりも解説のラベルに力を入れているといったほうが良いかもしれません。この句は、菜根譚の後集70にあるものです。

晴空朗月 何天不可翺翔 而飛蛾獨投夜燭
(菜根譚、後集70)

晴空朗月 何れの天か翺翔すべからざらん 而も飛蛾は独り夜燭に投ず
(菜根譚、後集70)

t19970309a
第3回翔作品展出品(1997.03.09)
何天不可翺翔    

 

 

菜根譚のこの部分の意味は、「晴れて明るい月のでている大空はどこでも自由に飛べるではないか?それなのに、飛び回る蛾はわざわざ自分から灯火の中に身を投じて焼け死んでしまう」というものです。これだけでも、何を言おうとしているのかは、何となくわかるような気がしますが、実は、この後に次のような句が続いています。 「清泉緑卉、何者不可飲啄、而鴟鴞偏嗜腐鼠、噫、世之不爲飛蛾鴟鴞者、幾何人哉( 清泉緑卉、何れの物か飲啄すべからざらん、 而るに鴟鴞<しきょう:ふくろう>は偏えに腐鼠を嗜む、ああ、 世の飛蛾鴟鴞と為らざらん者、いくばくの人ありや)」。この言葉は色々な解釈が出来るような気がします。しかし、素直にうけとれば、「本当はもっと自由に発想してより良い人生を送れるのに既成概念に縛られてしまって、全く逆の方向に歩いていってしまう」のを戒めている言葉であると解釈できます。これは、個人の生き方についても言えることであるし、社会全体の動きを見ても、少し離れたところから見るとこのように見えるのではないだろうかと思います。人間の作る社会というものは極めて複雑なものですから、もちろん、このような簡単な言葉で片づけられるものではありませんが、しかし、それにしても、我々はいつも蛾やフクロウと同じようなことをしているのではないだろうかと思わずにはいられないことがしばしばあります。

参考文献
*中村璋八、石川力山、菜根譚(講談社学術文庫742、1986.6.10)