游於藝

第3回「グループ翔作品展」に出品した篆刻の作品のうちの一つは前述の「何天不可翺翔」( t19970309a )で、もう一つの作品がここに記す「游於藝」( t19970309b )です。 私が住んでいる水戸市は、江戸時代に徳川御三家の一つ水戸徳川家のお膝元であったことから、この関係の史跡等に恵まれています。しかし、全国的に良く知られている水戸のものというと、偕楽園とそこで毎年開かれる梅祭り、それから、水戸納豆位しかないかなというのは少し残念な気がいたします。ところで、偕楽園は水戸徳川家第9代藩主徳川斉昭(烈公)が構想を練って1842年に開園した名園ですが、同じく斉昭公によって1841年に開館(仮開館)された水戸藩校が弘道館です。偕楽園は水戸駅の近くにある水戸城跡からは2 km程西に位置しており、JR常磐線に接しているので梅祭りの季節には偕楽園駅が開設されます。一方、国の特別史跡である旧弘道館はもともと水戸城内であったので常磐線水戸駅から徒歩で10分位のところにあります。弘道館は江戸時代の末期に造られた当時としては大規模な藩校で、この藩校の存在には水戸藩や斉昭の教育重視の姿勢が感じられます。実際、弘道館での広範な教育・研究が行なわれており、幕末維新期にかけての志士の思想形成にも大きな影響を与えたと言われています。この学校の教育方針は、特に、文武両道を鍛えることで、馬術、剣道、弓道等の武道の他に色々な学問についても研究・教育が行なわれました。このような考え方を表すものとして、武術の試合等をする対試場に向かう弘道館正庁の正席の長押には、斉昭自筆の「游於藝」の扁額がかかっています。

志於道、據於徳、依於仁、游於藝。 (論語:述而第7−6)

道に志し、徳に據り、仁に依り、藝に游ぶ。 (論語:述而第7ー6)

t19970309b
第3回翔作品展出品(1997.03.09)
游於藝    

 

 

上に記したように、この「游於藝」という言葉は論語にあるものです。ここで言う「藝」とは六芸のことで、礼(礼節)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(書道)、数(算術)を表しており、文武両道何れにも偏らずゆうゆうと楽しみながら取り組むようにと言うことを示しています。斉昭は、この言葉を大変好んでいて弘道館の扁額にしましたが、この言葉は、将に弘道館建学の精神を表しているものと言える言葉なのです。振り返って、現在の教育・研究の場を見る時、果たして「游於藝」という状況にあるのだろうかと考えざるを得ません。水戸藩の藩校弘道館が出来てからほんの30年も経たないうちに江戸幕府が崩壊して新しい明治の時代が来ていることからわかるように、弘道館は激動の時代に存在していました。現在は、当時とは又違った意味で大きな変革の時代です。「游於藝」と言うのは、将に、このように激動の時代にこそふさわしい言葉であるように思います。

参考文献
*諸橋轍次、中国古典名言事典(講談社学術文庫397、1979.3.30)